

しかしなー、どこまでが「大丈夫」で、どこからが「無理」なのか、よくワカラン…

体調が悪いと気分も沈みがちだったケド、それもちょっと持ち直してきた感じがあります

この調子が続いてくれたらいいんだがのぉ…

中原あきら ウェブサイト日本共産党 岬町議会議員
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この数日間、ちょっとした時間を要する課題がありまして…獲得してました
それとゆーのは、11月17日(日)にたつみコータローさんを迎えての企画デス。
内容を決め切らないと案内チラシが作れないもんで、みんなでよく相談して、二転三転したけどようやく内容が固まって、チラシも完成しました
加えて、子どもの新体操の発表会の衣装作りがありまして…そんなに時間かからないかと思ってたら、ところがどっこい…
昨日の練習に、必ず着てかなきゃないってんで、必死こきました
おとといの夜はウトウトするまでチクチクして、昨日は朝からチクチクして、子どもの歯医者の通院があったんで、治療中も待ち合い室でチクチク…何とかかんとか、新体操のレッスンには間に合いました
ちょっと久方のタイトな1日で、クタビレモードでごわす
昨日(31日)は「約束」、今日(1日)は「そして父になる」と、映画「三昧」ならぬ「二昧」です。
と言っても、昨日の映画「約束」は2回目で、半分は仕事みたいなもんでしたが…
「国民救援会」という、冤罪(えんざい)で理不尽を被っている人たちを支援する団体の自主上映で、地域の共産党のメンバーと一緒に観に行きました。
会場のサラダホールでは、あたたかみのあるこんな絵が迎えてくれました↓
私自身は、この映画はすでに「ナナゲイ」(十三の映画館「第七芸術劇場」)で観て、そのコトはこのブログでも書いたけど(4月19日の記事)、2回目には2回目の発見があるものです
今日の映画「そして父になる」は、男性向けの作品だなぁ…という印象。
同時に、私はそれこそ「できそこない」でも「母」なので、母親に感情移入してしまう…
テレビなどでよく報じられているのでストーリーはご存じでしょうが、6年間育ててきた「我が子」が、実は病院で取り違えられた「他人の子」だったという事実を受け止め、父親に「なっていく」というおはなし…正直なところ、うまく「飲み込めない」というか、まだ「カミカミ」して味わう時間が必要なカンジです
実はこの間、仕事のペースを落として、日々を過ごしています。
やや「休息」が必要な時期であることを、身体からのサインで感じているからです。
そんなんで、このブログの記事も、しばらくはややスローペースでアップすることになりそーですが、ご容赦くだサイ
「リバウンド」から完全復活までは、まだ道半ば…とゆ〜カンジだけど、スケジュールが4つ5つとつめつめの日もあれば、1つしかないスケジュールがほぼ一日みっちり…ってな日もあったり…ぼちぼち9月議会も本格化します
細切れにとる「休養」じゃあ、なかなかだなー
おととい、議会で委員会の打ち合わせを済ませた帰りに海岸線を走ってたら、道路上に石がゴロゴロ…車を降りて確認したら、海岸線沿いのがけから落下したものでした↓
溝にはまってんのは、結構でっかい石(岩)…通行人や通る車に危険が及ぶのでは…と思い役場の土木課に連絡したら、すぐに職員さんが来てくれて、現場を確認してくれました。
石を片付けてくれて、危険度は低いと判断したのか「しばらく様子を見る」とのことでした。
この間、季節が一気に進んで、秋を感じさせてくれます
今朝、新聞配達の途中に見たウロコ雲↓
キツネのしっぽみたいなフサフサの西洋すすき↓
私がぼんやりしてようがピリッとしてようが、季節は進みます。
悪い政治もほっといたら進むので、「完全復活」めざして、今日は観念して医者に行くことにしました
ぼちぼち時間だ…準備して行くか
昨夜遅く(正確には、日付が変わったころ)、無事にスキーから帰還いたしました
珍しく、1回も転ばなかった…のは、あまりキケンなとこにチャレンジしなかったせいか、雪の状態が良くて滑りやすかったせいか…とにかく、ケガなく帰れて何よりでした
地域活動の団体で、下は1歳から上は70歳までのファミリーや個人、総勢50人での参加でした。
私は声が大きいので、みんなが集まるゴハンのたびに、連絡係として活躍しました。
小さい子どものいる家族は、パパやママが滑れるように、保育を買って出たはいいものの、右腕に2歳、左腕に1歳を抱えての移動はタイヘンだった…1人は大泣きで、2人とも鼻水ダラダラ…
途中でヘルプしに来てくれたOさんが、神さまのようでした
帰りの高速では、3ヶ所も事故渋滞が発生してて、予定より2時間ぐらい遅くなりましたが、無事に帰れて何よりでした
スキー期間中もみんな大きなケガはなく、スキーが初めての子どもたちも楽しい経験になったようです
さて、今日からおシゴトおシゴト、がんばるぞぉ
しかし、山のようなシゴトもだけど、洗濯物も山のようだ…
両腕をはじめ、あちこちの筋肉痛も出てきたぞぉ…
「お別れ会」での、母へのお手紙は、こんなんです。
赤旗の日曜版の配達を残していたので、配達を済ませてから取りかかり、「ギャー、間に合わない〜!」となって、途中からは斎場で書きました
もー、こんな日までこんなんだよ…
お母さん、人生さいごの1年8ヶ月、よくがんばったよね…ってゆーと、それまでがんばってなかったみたいだけど、最後の十二指腸ガンを切った後は、がんばってもがんばってもどうしようもない相手とたたかってきたもんね。
盲腸と十二指腸、お医者さんいわく、「珍しいところばっかり」にガンができて、一風変わった、何ともお母さんらしい発病だったよね。
その時々は、私なりに精一杯のことをしてきて、後悔することはないと自分では思っていたけど、そうでもないもんだね。最後の十二指腸ガンの手術の後は、厳しくリハビリを迫ったりして、どうしてもっと優しい言葉をかけなかったのかと悔やんでいます。議員の私を助けようと、人一倍ビラまきに精を出してくれたのに、ちっともほめてあげなくて、ゴメンね。
少し苦労したのは、6月23日に、余命1ヶ月と宣告されてから、お母さんに本当のことを言えなくなったことです。お母さんは単純だから、「希望」を失わせたくなかったんだけど、ずっと体の状態や手術のことを伝えてきたのに、ある時から、中心点が伝えられなくなって、オプション的なことしか言わない私たちに、「?」な気持ちだったと思います。直接、「私は死ぬの?」って聞かなかったのは、私たちへの思いやりだったのかなぁ…聞かれたら、どう答えたらいいか、困ったから。
お母さんは、あまりにも正直で、いろいろとブツギをかもしたりもして、私はお母さんを「困った人」だと思ってきました。病気になってから、いろんな人に私の知らなかったお母さんの話を聞いて、今は、「お、なかなかほめられた人じゃん」と思っています。最後まで、本当にいい仲間に恵まれてきたね。
お母さんは、いいものをたくさんくれました。私は、自分のことをまぁまぁ気に入ってるけど、いいDNAをくれたなァと思います。
お母さんは、お父さんとの手づくりの結婚式のカードに、こんなことを書いてたんだね。「二人の結びつきが、社会の発展につながるよう…あたたかい心と希望ある社会の中へ」…その言葉通りに、私に、多くの人の幸せのために働ける人生をくれました。今も思い出されるのは、選挙の報道を見て「みんないいこと言ってるなぁ」と言った私に、「大事なのは、何を言ったかじゃなくて、何をしたかだよ」と言ったお母さんの言葉です。「政治の真実」とは何か、その原点を、短い言葉で伝えてくれたと思います。
親らしくないお母さんだったけど、人として大切なことも教えてくれたね。お兄ちゃんとケンカして「死んでまえ!」って言った私にビンタをしたこと…命の大切さを伝えたかったんだね。遠足のお弁当にイラスト入りの手紙を入れてくれたこと、中学校の参観日にお父さんと一緒に来てくれたこと…私のことを大切に思ってくれているんと感じさせてくれて、ジグザグはあったけど、人間性豊かに育つことができました。
ガンとたたかって、どんどん体力を奪われていたつらかった時、お母さんが「晶の声を聞くと、元気になる」と言ってくれたように、これからも、たくさんの人に元気を感じてもらえるように、生きていきたいと思います。
あなたの娘
晶より
今日は「お別れ会」、昨夜はお通夜に当たる「会」をして、母を送りました。
無宗教で、親戚と、母と関係のあったごく親しい方々と一緒に、お別れをしました。
8月5日、自分の産まれた日に送ってもらうという、何とも母らしい「分かりやすい」ことになりました。
誕生日プレゼントをどうしようかと思っていましたが、今日はいいプレゼントができました。
昨夜の「会」は、朗読の会「VOICE」の方に、「おこりじぞう」という絵本を朗読していただきました。
ちょうど1年ぐらい前、アップル館と淡輪公民館で発表するために、母が一生懸命に取り組んでいた作品です。
パワーポイントで絵を映し出して、VOICEのみなさんが、かわるがわる朗読するという、母にとってもVOICEのメンバーにとっても初めての取り組みで、母は、役場から機材を借りたり、PCに画像を取り込んでもらったりと、張り切ってやっていたそうです。
朗読をしていただくことで、「会」に来てくださった方々に、母が取り組んできたことの一端に触れていただきました。
私も、発表を見に行かせてもらいましたが、苦労と努力の跡を感じました。
だいたい、「面倒なことはキライ!」とゆー母なので、よくそんな「面倒なこと」に取り組んだものです。
他に、母へのメッセージをみなさんに書いていただき、いろんな方から、母の話を聞かせていただきました。
母の意外な一面を知ることができました。
今日の「お別れ会」では、絵本の会の方に、母が作った紙芝居を演じていただきました。
「ほたるはほんとにやくにたつ」という作品で、ストーリーのアイディアは父、登場人物は、どうやら、父と兄と私のようでした。
2006年の箕面手づくり紙芝居コンクールで優秀賞をいただいた作品で、素朴な中に、ユーモアが見え隠れする紙芝居です。
まじめさとおかしさを持った母らしい作品でした。
その後は、母のために書いてくださったメッセージを読む時間をつくりました。
私の手紙は、こんなカンジです↓
ちぎり絵のメッセージ用紙を用意してくださったのは、地域の共産党のメンバーのNさん。
闘病中の母に、ちぎり絵手紙を送ってくださって、母は、「あったかみがあって、すごくいいのよ」と見せてくれていたので、事前にNさんにお願いしていました。
しんぶん赤旗のカラーページを使い、何十枚も貼ってくれて、どれも結構手が込んでる…何人かは、母が貼ったものでないと知りながら、「記念に」と持ち帰られました。
トンボや茄子など、季節を感じられるものの中から、コレを手に取りました。
母と私の後ろ姿のようで、迷わず選びました。
母へのメッセージは、どなたも心あたたまるもので、母がかけがえのない人であったこと、そして、みなさんの役に立たせてもらっていたことが分かりました。
人の役に立っていたことを知ったら、母が喜ぶだろうと嬉しく思ったのと同時に、その人を失った悲しい気持ちを共にしました。
あいさつに立った父は、みなさんからいただいたメッセージに言葉を詰まらせながらも、母がみなさんの役に立たせてもらったことを嬉しく思ったと、感謝の気持ちを伝えていました。
出棺、火葬と進み、お骨あげの時は、私は意外にそれほどの悲しみは感じませんでした。
「こんなになって…」と、また泣くことになるのかと思っていましたが、骨の説明を受けていると、何だか探求心をくすぐられる研究者のような気持ちになりました。
久しぶりに会った親戚とも、母の話で盛り上がって、ここでも意外なエピソードが聞けて、結構楽しかったです。
これからは、父を支えながら、諸々の片付けをしていかなきゃ、です。
またいろいろ思い出して泣くだろうけど、時間が徐々に忘れさせてくれると思います。
毎日の「日記」の復活は、まだ先になりそうだけど、私のことだから、また歩き出すことでしょう。
「人間にとって、『希望』って大切だと思うんですよね」…今、母が過ごしている「緩和ケア病棟」の看護師長の言葉です。
転院を考えて面談に行った時に聞いた言葉で、父が、母にサプリメントを飲ませてもいいのかと聞いた時の返事です。
サプリメントを飲むことが、ひとつの「希望」になるなら、毒でなければ飲むのもいい、という話をされました。
母は、もうPCでこのブログを読むことはないので率直に書きますが、「緩和ケア病棟」…いわゆる「ホスピス」に入院するということは、病気を「治す」という時期ではなくなったということをさします。
よりストレートに書くと、ここで「最期」を迎えるということです。
母には、いわゆる「告知」をしていないので、一時までは、「希望」を失わないように、本人の耳に入らないように、気をつけていました。
今も本人には告げていませんが、さすがに自覚していると思うし、母のきょうだいや友人には伝えています。
だからと言って、見舞いに来てくれる人が、無神経なことを言うわけでもありません。
緩和ケア病棟では、積極的な「治療」はおこないません。
おこなってもマイナスにしかならないからです。
かといって、医療的な処置をしないということではなく、痛みなどの「苦痛」を和らげるための注射や点滴などを、適切にほどこしてくれます。
「最期」を、苦痛の中で迎えるのではなく、安らぎの中で迎えるために、丁寧な説明をしながら、本人と家族の意志を尊重して、「命」を縮めることにはならないでき得る限りの医療行為をおこないます。
先週、主治医から、「あと2〜3日で…という可能性がある」と告げられ、会っておいてもらいたい人には連絡をして、会いに来てもらっています。
現在のところ、比較的安定した状態ですが、いつ変化があるかは分かりません。
「安定」というのは、安堵と同時に、この先の不安を感じさせるもので、今は「この時」が永遠に続いて欲しいと願うだけです。
今、母との「お別れ」の仕方について、考えています。
母は特別な信仰はないので、「自由葬」にしたいと思い、送り方について考えています。
私は、これまで、何かに向かって歩いたり走ったりしてきたと思っています。
その「何か」は、「希望」に似たものだったと思います。
だから、私にとって、送るための準備をするのは、「前」ではないけれど、「何か」に向かってものごとをすすめることであって、少し気が紛れるのでしょう…人は、「母のため」と思うでしょうが、私自身は、どれぐらいかは分からないけど、いくらかは自分のためだと感じています。
「いくらか」と書いたのは、残りは、母との「お別れ」に来てくださる方のためだと考えているからです。
残された人に、母と「きちんと」お別れをしてもらいたいという気持ちがあるのです。
「自由葬」を選んだ遺族は、宗教上の「法要」がないので、「気持ちの区切りがつきにくい」と、ある本に書いてありました。
それで、残された人たちが、母とのお別れを少しでも受け入れられるようにしたいと思い、「お別れ会」の準備をしています。
「希望」から書き始めたのは、「希望」とは違うけれど、何かに向かってものごとをすすめることが、今の私には「希望」に似ているように感じたからです。
入院以来、ずっと付き添っている父のことも気がかりで、泊まれる時は病院に泊まって、なるべく病院に居るようにしています。
そんなんで、議員活動は、ほんとにちょぼちょぼしかできていないし、党活動も地域活動も家事も、たくさんの方が私の仕事をかぶってくれて…支えてもらっています。
お返しできる時がきたら、これまで以上にがんばりたいと思います。
長い記事やな…それに、絵文字が全然ナイ…さすがに、内容からして絵文字使えないもんねー